占術

宗教とは異なる占星術数秘術について。天珠の紋様の意味、○紋様の数の関係などが占術に秘められているのではないかと推測されるので記載しておく。

1.占星術
 太陽系内の天体の位置、動きなどと人間社会のあり方を結びつけて占う技法で、元々は国王や国の未来を予見するためのものであった。紀元前2500年頃にはすでにシュメール文明(古代バビロニア王国南部、チグリス・ユーフラテス川南部)が占星術を作り出しており、その後、紀元前2000年頃には古代バビロニア王国で大規模な天体観測がおこなわれ、天体位置の記録がされるようになり、バビロニア占星術が誕生している。出土した記録ではシュメール人はこの時点で太陽、月はもちろん水星、金星、火星、木星土星天王星海王星冥王星およびニビルという現在未発見の惑星と、自分たちが立っている地をすでに惑星ととらえており地球を入れた12個の星を観測していた(一般的に肉眼で観測できるのは水星から土星までで、天王星は観測できないこともないといわれているが見つけるのは困難、天王星より外の惑星は肉眼での観測は不可能である)。一般的に古代占星術と呼ばれるものは、太陽、月、水星、金星、火星、木星および土星の7つを用いる。また、インド占星術(紀元前3000年頃からあったとされる)は上記7惑星にラーフ、ケートゥという2つの架空惑星を含める。天王星海王星および冥王星は近代になって取り入れられたものである。紀元前2000年頃に古代バビロニア王国に滅ぼされたシュメール文明人は、その後、インダス川を経由してチベト高原に入り、黄河を目指したといわれ、その際に占星術チベットボン教にもたらされたという説がある。しかし、他にもボン教に「摩登伽経」などの仏教と共にチベットへ伝来し密教占星経が成立し、チベット占星術(ラマの占星術、ナクティー)が誕生したという説もある。チベット占星術密教占星術として限られたラマ僧にのみ伝承され、それはインドや中国の影響がみられるものといわれている。恐らくはシュメール人からもたらされた占星術チベット占星術は別物で、前者の占星術は古代ボン教アニミズムにうまく組み込まれたもので、後者のチベット占星術は仏教と共に伝来したインド起源のもので、両者は別な形態の占星術ではないかと推測している。

2.数秘術
 起源は古代ギリシアの数学者、哲学者で有名なピタゴラス(紀元前582年〜紀元前496年)がはじまりとされるが、古代バビロニア王国(紀元前2000年〜)が起源とする説もある。また、数秘術は口伝で限られた者に伝えられるといわれており、その体系は密教を連想させる部分がある。

天珠とは

天珠は漢字圏で「天から授かった宝珠」という当て字を使い「天珠」と表記され、英語圏ではチベット人の天珠の呼び方が「ジー(ズィもしくはスィー)」であったためdZiという当て字を使います。筆者自身はどちらを使っても「正しい」とか「間違い」はないと思っているので、ここでは「天珠」という表記を多用させてもらうことにします。中には「dZi」と言うことが「通」であると勘違いされる方がいますが、どちらを使っても意味が通じればよいと思っていますので呼称にこだわる必要はないかと思います。
さて、本題の天珠ですが、天珠には諸説ありますが、神話では地上で疫病が蔓延し、それを哀れんだ神が天珠を地上に降らせ疫病を治した。または天上界に住む虫が地上に落ちて石化したもの、あるいは天上界の蝶の幼虫やさなぎが地上に落ちて石化したもの、天上界の蓮の花弁が地上におちて石化したものといわれているが、どれも内容的には仏教伝来後に後付けされた内容のようである。また、別な説では、高僧や特別に修業をした者だけが身に着けられるものとされ、その紋様をつけるのは僧侶が真言を唱えながら長い時をかけて作られるといわれています。
チベット人にとって天珠はアクセサリーという位置づけではありません。また、誰しもが持っているわけでもありません。テレビなどの映像でチベット人を見ると天珠やトルコ石、山珊瑚、琥珀などを髪に編み込んでいたり、首から下げて装飾している姿を見かけますが、あれは撮影用にお洒落をしているとかではなく、本来のチベット人の姿なのである。チベット人の多くは放牧や農業を営み、テントや粗末な民家で生活をしています。そのため、高価な物などを保管する術がないため、自らが家の財産を身につけ盗難を防いでいるのです。また、女性は嫁ぐ際には天珠を含めトルコ石、山珊瑚および琥珀などの宝を身につけ、その家の豊さを象徴するともいわれています。つまり、天珠はチベット人にとっては持ち主を守護するお守りであり、富の象徴でもあり、二度と手にすることのできない大切な宝なのである。

天珠の起源について

天珠を扱っているショップであれば、まず間違いなく説明されるのは「2000年から2500年以上前からチベットに伝わるパワーストーン(霊石もしくはお守り」となっていると思います。天珠の意味に関しても、ほぼ間違いなく仏教に精通した内容です。しかし、ここでみなさんに疑問を持ってもらいたい。前述したとおりチベットに仏教が伝来したのは紀元後8世紀頃である。それに対し天珠は2000年から2500年以上前、つまり紀元前からあるものとされており、年代に矛盾が生じているのです。つまり仏教伝来以前にはすでに天珠が存在し、今ある意味とは別の意味や用途があったものなのである。では、仏教伝来以前の天珠にはどういった意味合いがあったのでしょうか。今まで長々と天珠から離れたテーマで書き続けていましたが、ここからが今回の最大の課題なのです。

確定をすることはできませんが、天珠は紀元前500年前後のシャンシュン王国で作られたとされるという説と、紀元前2000年頃には既に存在し、現在のイラン周辺と思われるタジク王国、もしくはペルシア方面から持ち込まれたという説があります。タジク王国という国は現時点では存在が明らかではなく、伝説としては「チベット西にあり、世界の2/3を占める神秘の国」といわれており、幻の国シャンバラと同一視されることもあります。ちなみに現在のタジキスタンとは関係ないといわれています。また、紀元前2000年頃に滅亡したシュメール人インダス川経由でチベットに入り東部へ移動した際にもたらされた可能性も考えられます。ただひとつ言えることは、天珠はチベット圏で作られたものではあるが、源流となったものは他国にあり、仏教に関わるものではなく、今ある天珠の意味合いは後付けされたものだということである。
 では、もう少し内容を細分化して推測してみようと思う。

a.シャンシュン王国起源
 シャンシュン王国は前述したとおり、紀元前1000年頃に建国された王国であり、ボン教を信仰していました。ここで考えられるのは、天珠は「ボン教に関係しているもの」もしくは「王国の階級などの印として使われていた」のふたつの説が推測でき、どちらも何かの目印的な意味合いで作られたと思われます。

b.タジク王国、ペルシア方面から持ち込まれた
 紀元前2000年頃のイラン方面は、メソポタミア文明アッカド王朝から古代バビロニア王国に切り替わる頃である。戦場から逃れてきた者、あるいは領土拡大をしようとしたバビロニア兵士がチベット方面まで訪れた可能性がある。その際に天珠の元となったものあるいは技法が持ち込まれた可能性は十分にあり得るのです。また、逆の発想でチベット人アッカド王朝、もしくは古代バビロニア王国を訪れた際に手に入れてチベットに持ち込んだ可能性も推測でき、この場合は交易品か献上品としてもたらされたと思われる。

c.シュメール人が持ち込んだ
 シュメール文明は紀元前2000年頃、古代バビロニア王国に支配され、その際、シュメール人は東方のインダス川を経由しチベットに入り、そして黄河上流を目指したといわれ、羌族の祖先ではないかともいわれています。シュメール人固有のものだったか(ただし、シュメール文明の遺跡から天珠が発掘されたという事例は報告されていない)、インダス川を経由した際にインダス文明から持ち込んだ可能性、インダス文明のエッチドカーネリアンが天珠の基礎となった可能性も推測できます。

簡単にまとめると、古代チベット人(古羌族)の長または呪術師のような権力のある者が権力の象徴として天然縞メノウのビーズ(スレマニではない)を持っており、その後、建国したシャンシュン王国(紀元前1000年〜)でも権力の象徴として天然縞メノウビーズが用いられていたが、その後、交易などでエッチドカーネリアンやスレマニがインダス文明よりチベットに持ち込まれるようになる。しかし、当時は恐らくそれほど交易が盛んではなかったため簡単に手に入れることの出来ないものであり、そこでその美しさを真似て、チベット産のメノウを使いエッチドカーネリアンの技法を用いて作られたのが天珠の起源ではないかと推測できる。
もしくはシャンシュン王国ができる以前(紀元前2000年頃)に、シュメール人によってエッチドカーネリアンとその技法が古代チベット人(古羌族)の集落に持ち込まれて天珠の前身が作られ、シャンシュン王国にも受け継がれたとも推測できる。

天珠の用途

天珠はなぜ作られたのか、未だ謎な部分ですが、先にも述べたようにお守り、呪術的な道具、階級などを表す印、権力者の象徴、他にも宗教上の修行の道具、薬材や貨幣(トレードビーズ)などが考えられますが、出土数などから考えると、お守り、薬材および貨幣(トレードビーズ)であった可能性は極めて低いと思い、この3点については追及しないことにする。ただし、仏教伝来以降の天珠の利用方法としては、チベット医学書「四部医典」に薬のひとつとして天珠が掲載されている。また、少数ではあるが交易品として輸出された形跡もあるようで、アフガニスタンやネパールなどのヒマラヤ圏で出土されることがある。

天珠の歴史

吐蕃王国以前までの天珠は、ごく限られた者のみが所有し、使用の際も限られた者の前でのみ使われ、一般にはお目にかかれない神秘的で秘密の宗教的道具であったのではないだろうか。吐蕃王国設立以降は仏教伝来により、ボン教的な天珠の用途が薄れてゆき、いつしか仏教が天珠を仏教的道具に取り込んでいき、一般の僧侶なども身につけるようになって秘密的な宗教道具ではなくなり一般人の目に触れる機会が増えていったのだと推測する。
それを裏付けるようなものは「ビーズ類歴史的分類表」という本があり、その中では、天珠は紀元後600年頃に突然現れて紀元後900年頃には衰えはじめ、紀元後1500〜1700年半ばまでその技法はモンゴルに引き継がれているようであるのだが、これは以下のように考えられる。

「紀元後600年頃突然現れる」
 吐蕃王国がシャンシュン王国を滅ぼし、チベットを統一した時期。
「紀元後900年頃衰えがみられる」
 ある一定の者に行きわたり、後は天珠を弟子や子孫に継承していくようになり、新たな天珠を作成する必要性がなくなってきたため。
「紀元後1500〜1700年半ばまでその技法はモンゴルに引き継がれている」
 当時は元の支配下であったため、当然あり得ることである。

紀元後17世紀頃に中国で天珠の模造品が作られるようになり、1970年頃に台湾で天珠がブームになったといわれている。

天珠の形状

 天珠の形状は樽形、円筒形、角形、弓形および板形などがあり、大小様々でほぼ球形に近い樽形もある。目安として30〜40mm程の長さのものが一般的で、小型のものは10mm前後である。角形、弓形、板形のものはいずれも丸みを帯びているのが一般的であり、通常、紐などを通す穴があけられているが、穴のないものも見つかっている。
 曲面を持つというのは重要なことで、これは災いなどを多方面へ分散させて消すという働きを持つ(球体や円は∞角形であるといわれている。ミラーボールに光を当ててみるとよく分かると思います)。

天珠の技法

 現代においてもまだ不明な部分の多い、紋様の焼き付け技法だが、現代の天珠においては、白い部分をアルカリ性化学物質(一般にはカリ溶液)、黒い部分を酸性化学物質(一般には硝酸銅)で焼き付けていることが分かっている(他にも赤色を出すために酸化鉄を使用するという話もある)。メノウに薬品を焼き付ける際には約1300℃の高温とその際に窯の内部の圧が不安定になるため圧が加えられているようである。しかし、薬品の濃度、詳細な温度や圧などの部分は企業秘密になっており、工場によって多少の違いがあるようだ。古代の天珠においては、白い部分をエッチドカーネリアンと同じ技法(アルカリ性の強い植物の根から採取したナトロンという鉄分を含んだ塩分(アルカリ性)の液を灰と混ぜて使用)もしくはヒマラヤ圏で採れる岩塩を使用したと思われ、黒い部分は砂糖水を塗るもしくは浸透させ煮て、砂糖から水分を取り炭化させる方法がとられたといわれている(砂糖は紀元前2000年頃にはインドで作られていた)。焼き付けについてもエッチドカーネリアン同様に300℃から400℃の低温で時間をかけて焼き付けたのではないかと思われる。
 現代の天珠は販売が目的であるため短時間で作成しなくてはならないため高温が必要なのではないかと思われる。しかし、圧の関係で破損し廃棄処分されるものも多いと聞く。しかし、古代の天珠については破損し廃棄されたような天珠は見つかっておらず(工房らしいものも見つかっていない)、時間をかけて低温で焼き付けたため破損がなかったものだと思われる。それは古代の天珠が販売目的ではなかったため、短時間で作る必要がなく時間をかけてゆっくり仕上げることができたためではないだろうか。
 ちなみに、木炭(黒炭)が燃焼し落ち着いている時の温度が700℃〜900℃と言われており、炭の中(もしくは近く)に天珠を入れて焼き込めば窯などを必要とせず時間をかけて焼き込むことができる。