協会について(since2010.1)

この協会は、天珠に関しての歴史、用途などあらゆる情報を収集し、
現在、未知なる部分のパズルのピースを埋めていこうと思い作られた協会です。

ただ天珠が好きというだけでなく、天珠に関しての基本的なところから奥深いところまでいろいろなことをみなさんに知ってもらい、
知識を深め、良い天珠と出会って頂きたいと思っています。

将来的には、天珠に関する情報、名称などを統一し共有していけたら良いなという9割9分妄想で作られた協会です。

なお、イロイロな情報が入り次第、加筆、訂正、削除などをしますのでご了承ください。

現在、たくさんの情報、資料をお持ちの方、そしてひとつの情報に偏らない推測のできる方で、
当サイトおよび当協会の協力をしていただける方を募集しております。
まだ見切り発信ですが、みなさんと試行錯誤して作り上げていきたいと思っています。

なお、後にも書くと思いますが、当協会では基本的に天珠の本物とそうではないものの区分は、
メノウ類で作られ、紋様は焼きこみがされているものを本物。
メノウ類以外の鉱物、石以外で作られたもので、紋様はたとえそれがメノウ類であったとしても、
焼きこみがされておらずただ表面に書かれているもの、または彫られているものを本物ではないものとします。
また、それ以外にも最近見かけるようになったもので天珠に穴をあけて宝石等を埋め込んだり、
文字を彫るなどの細工を施したものは、たとえ正統な方法で作られた天珠であっても、
それは天珠と呼ばず、ただのメノウビーズに分類することとします。
(天珠という既に完成品であるものに細工した時点で、天珠としての価値が無くなるため)

注意:当サイトの文章の全体および部分的転用・転載はお断り致します。
当サイトの内容を引用等する場合は管理人にメールにてその旨を連絡してください。
メールはプロフィールを見ることで確認できます。
◆目次◆
ビーズの歴史
ビーズとは何か
ビーズの紹介
天珠に近いビーズの紹介
チベット高原の歴史
ボン教
占術
天珠とは
天珠の起源について
天珠の用途
天珠の歴史
天珠の形状
天珠の技法
朱砂について

ビーズの歴史

天珠ができるまでその見本になったかもしれないものがある可能性がある以上、イロイロなビーズの特徴などを知ることは重要である。
人間が自然の物を使いアクセサリーとして身につけたものとして、現在知られているのは、おおよそ75000年前の南アフリカのBlombos渓谷で見つかった貝殻に穴をあけたビーズが最も古いものといわれています。
 それ以外には、45000年前のダチョウの卵の殻で作られたビーズがアフリカのケニアで見つかっており、他にも35000年前の赤色のビーズが中国で、25000年前のマンモスの象牙のビーズが、ロシアの子供の遺体を安置した棺の中から見つかっており、この象牙のビーズはビーズを編みこんで作ったものとしては最古のものといわれています。また、イラン近辺では紀元前3000年頃のラピスラズリを用いたビーズの装身具が見つかっており、他にも紀元前2528年から紀元前2521年の古代エジプト第四王朝時代の墓からファイアンスビーズのドレスとネックレスが出土しています。

ビーズとは何か

ビーズは紀元前に、太陽、月の象徴として崇める球体を作り装身具としたのがはじまりで、神聖なものとして崇められてきた。その後、神々を祀る儀式の道具(宗教的、呪術的な神秘力を備えた心のよりどころ)、権力、富の象徴に変化し、やがて貨幣などトレードビーズ(物々交換)になっていった。

ビーズの紹介

ここでは簡単にですが、各ビーズの説明をしていきます。ただし、本題の天珠については後ほど詳細に説明していきたいと思いますのでここでは割愛させていただきます。また、後述いたしますがエッチドカーネリアン、スレマニおよびパムテックビーズ(ブンテックビーズ)についてもここでは割愛させていただきます。

1.ファイアンスビーズ
 紀元前26世紀頃のエジプト、中近東諸国で作られたもので、石英の微粒砂を固めてその上にガラス質のうわぐすりを塗って焼いたものである。神殿などへの奉納品として使用されていた。

2.トンボ玉
 紀元前32世紀頃には作られていたようだが、完全なガラスのものは紀元前2500年頃に作られはじめた。発祥はメソポタミアと言われており、大量生産され始めたのが紀元前16世紀頃でバビロニア王国でも作られるようになる。紀元前15世紀頃にはエジプトでも作られるようになり、貴族の装飾品や魔よけの宝石として用いられ、中世、近世には交易品としても用いられるようになった。

3.大珠、勾玉など
 大珠は紀元前3000年頃から紀元前300年頃にかけて作られていたヒスイ製で小判型の上部付近に穴が開けられたもので、呪術的な道具として用いられ、呪術者や統治者の占有品であった。しかし、弥生時代には伝承されなかった。新潟県糸魚川産のヒスイで作られた紀元前1500年頃の大珠が沖縄県で見つかっている。
 勾玉は紀元前3000年頃から紀元後8世紀頃に見られる装身具の一つで、他にも露玉、平玉、小丸玉、ねじり玉、雁木玉および辻玉などの装身具がある。多くはヒスイ、メノウ、水晶および滑石などで作られ、土器製の物も見つかっており、紀元前6世紀から紀元後3世紀初頭にはアマゾナイト製の勾玉が見られる。魔を避け幸運を授かるものとされ、朝鮮半島や中国との交易品として使われていた。

4.玉(ギョク)
 紀元前5000年頃の長江流域および黄河流域の文化に見られる。発祥は長江の良渚文明と言われており、様々な形や動物彫刻が見つかっている。主にネフライト製で呪術的な道具、軍事権力の象徴および政治権力の象徴とされ後に幸運を呼ぶものとされた。
 玉(ギョク)は「磨くと光る石」、「宝」または「王」という意味も持っていてビーズ以外のものも指す。
(どちらかといえばビーズには分類されないかも)

5.ナザールボンジュ
紀元前1000年頃からトルコで作られているガラス製の目玉模様をしているお守りで、主に青いガラスの上に目が描かれている。ガラスの目玉が邪眼を跳ね返し、病気や不幸から身を守ると言われ、大小デザイン別にいろいろな種類があり、守るものの対象に合わせて目玉の大きさを選ぶと良いと言われている。

6.フェニキアビーズ
紀元前600年代から紀元前100年代頃に古代地中海東岸(現在のシリア一角、シリアのタルトゥース辺りから南はパレスチナのカルメル山に至る海岸沿い)で作られたガラス製のビーズで、貿易用の商品(貨幣)として使用されていた。後にヨーロッパのケルト人、東洋の春秋戦国時代の中国に伝わった。

7.インドビーズ
 紀元前7世紀頃から作られていたもので、紀元前3世紀頃にはガラス製やメノウに腐食加工したものが多くみられる。インド北部と南部から出土し、北部と南部では紋様に若干の相違がみられる。

8.戦国玉
 紀元前475年から紀元前221年にかけて作られた中国製のトンボ玉である。鉛バリウム系のガラスを使用している。鉛の混入率が高いため通常のガラス製トンボ玉よりも重い。

9.ローマングラス
 厳密に言うとビーズの分類には入らないのだが、ビーズのように装飾品として利用されているので記載しました。紀元前100年代から紀元後300年代に作られたガラス製品が、土中で銀化現象(風化現象の一種)を起こしたもので、ビーズとしてのローマングラスは、銀化したガラス製品の破片を利用している。

10.ヴェネチアビーズ
 紀元後12世紀頃からイタリア周辺で作られはじめ、権力者や貴族のための宝石のイミテーションとして使用されていた。紀元後16世紀から紀元後18世紀頃にかけて大型でカラフルなビーズが作られるようになりアフリカや東南アジアへ輸出されていた。また、紀元後17世紀頃にはヴェネチア(現在のイタリアのヴェニス)特有の円筒型トンボ玉が作られ、インドネシア、アフリカおよび北米に輸出されていた。

11.シェブロン
 ヴェネチアビーズの一種で紀元後14世紀頃にヴェネチアムラーノ島で作られた。その後、技術が近隣諸国に広がり紀元後15世紀から紀元後16世紀頃にオランダでも作られるようになった。主にアフリカとの交易品として使われ、権力の象徴となった。

12.ボヘミアビーズ
 別名チェコビーズとも呼ばれ、紀元後16世紀から紀元後17世紀頃にチェコ西部のボヘミア地方で作られた。現在ではチェコで作られたビーズを総称してボヘミアビーズと呼ぶこともある。カリガラス(木炭を含んだガラス)で作られるのとファイヤーポリッシュ(機械でカット後、高熱で表面を溶かす技法)という技法で作られるのが特徴で、硬くてツヤがあり透明度が高い。

天珠に近いビーズ類の紹介

ここでは、天珠の原点になったと思われるビーズ類および天珠の影響を受けたと思われるビーズ類の紹介をしていきたいと思います。

1.天然縞メノウ(天眼石):Natural Banded Agate (Eye Agate)
 天然の縞模様を生かした天珠型もしくは丸型のビーズ。後述するスレマニも天然縞メノウですが、外観が全く違うため区別しました。磨く角度によっては縞模様で天珠の「眼」や「線」が再現するできることから天珠の前身ではないかと思われる。作られた年代等は確定したものはない。メノウが産出される所であればどこででも作製が可能と思われる。

2.エッチドカーネリアン:Etched Carnelian beads
 紀元前2600年から紀元前2200年頃にインダス文明において作られはじめ、メソポタミアの初期王朝であるアッカド朝期から輸出されはじめている。材質はカーネリアン(紅玉髄)で、アルカリ性の強い植物の根から採取したナトロンという鉄分を含んだ塩分(アルカリ性)の液を灰と混ぜて紋様を書き、300℃から400℃の低温で焼き、固着させる(あぶり出すという説もあり)。天珠の紋様を焼き込む技術の原点だと推測している。

3.チョンジー(チャンジー):Chung dZi
 紀元前3世紀から紀元後2世紀のヒマラヤ圏で見られる、主にカーネリアン製のビーズ。名前は台湾で「中天珠(副次的な天珠)」(中のチベット語の音訳がチョン)いう意味を持つらしく、代表的なものに線紋様が多いため「=線珠」と思われがちだが、線珠のことをチョンジーと言うわけではないそうです。筆者は前述したエッチドカーネリアンと天珠の中間的存在と推測している。

4.スレマニ(スレイマン、スーリマン):Suleiman
 スレマニとはビーズに限らず原石そのものの呼称で、天然の白黒の縞メノウだがその縞模様は独特で縞メノウと結晶化した二酸化ケイ素から構成される鉱物。産地もインド南部と限られている。天珠の前身になったものと思われるが、その歴史的背景等、天珠同様に謎な部分が多い。
 インド南部の古代カルナータカ(現在のカルナータカ州)は紀元前3000年頃にはすでにインダス文明との接触があったといわれ、インダス文明ハラッパー遺跡では古代カルナータカ産の金が見つかっている。とすると、スレマニの貿易もあった可能性が推測できる。
スレマニの貿易経路としてはいくつか考えられるが、

?インド南部から海路もしくは陸路でインダス文明に渡り、インダス文明からギルギットそしてカシュガルへ運ばれたと思われ、途中のギルギットでチベット人が入手したとする説。ギルギットは古代西チベットにあったとされるシャンシュン王国の西端と言われているため、可能性は否定できない。ちなみにカシュガルは古代イラン語、ペルシア語で「玉の市場」と言われ、シルクロードを通り多くの物が集まる場所であった。スレマニという語源はカシュガルのローマ字表記である「Sulei」とチベット語の「宝石」を意味する「マニ(mani)」で「カシュガル(Sulei)へ持ち込まれる宝石(mani)」でスレマニと呼ばれるようになったと推測できる。

? ?と似ているが、チベット人がギルギットではなくカシュガルでスレマニを手に入れたという説。つまり「カシュガル(Sulei)の宝石(mani)」でスレマニと呼ばれるようになったと推測できる。

?インド南部から海路にて古代イスラエル王国のソロモン王(紀元前1035年から紀元前925年頃)に献上され、その後、カシュガルを経てチベット人の手に渡ったという説。ソロモンはトルコ語で「スレイマン(Suleyman)」と呼ばれており、「ソロモン王の宝、もしくはソロモン王からもたらされた宝」でスレマニと呼ばれるようになったとも推測できる。

諸説イロイロあるが、今回は天珠がメインのためこれ以上は追及しないことにする。

ちなみにシルクロードについて少し補足しておきますが、シルクロードと正式に名前がついて貿易が盛んになったのは紀元前2世紀頃からですが、まだシルクロードという名前が付いていなかった時代から少数規模の行商の往来はあったものと推測しております。というのもタクラマカン砂漠シルクロード上のオアシス都市では、紀元前2000年頃から近隣都市との交流があったと思われ、その遺跡からは紀元前2000年頃のヨーロッパ系の女性のミイラ(ローラン美人)が見つかっており、他にも紀元前1800年頃の子供のミイラ、紀元前1000年頃の赤ちゃんのミイラ、紀元前700年頃の赤ちゃんのミイラが見つかっています。オアシス都市では食料供給にも限度があると思いますので、外部との貿易があっても不思議ではありません。

5.バムテックビーズ(ブンテックビーズ):Pumtek beads
 北方インド、ミャンマーの山岳民族で主に見られ、中国四川省西北部が起源とされる。ヤシの木質部分に珪酸塩が染み込みオパール化した木の化石で作られ、形は樽形、板形などがあり、紋様を着ける技法、紋様の種類など天珠に共通する部分があるがまだ謎な部分が多い。雷のパワーを凝縮したビーズで災いを防ぎ幸運を招くと言われている。紀元前1000年頃のチベット東部のチベット遊牧民族である羌(チャン)族の家宝とされている。時期的には天珠とほぼ同じだが、天珠を元に作られたビーズ、もしくは天珠と同時期になんらかの理由で天珠と差別化するために地元で採取できた木の化石を使ったのではないかと推測している。

チベット高原の歴史

天珠のルーツを調べる上で、チベットおよびチベット周辺諸国の歴史背景を知ることはとても重要なことである。古代のチベット高原は大きく分けて東部と西部に分けられ、後に併合されていきます。

1.チベット高原東部
a.羌族(チャン)
 チベット高原東部の先住民と言われており、その祖先はシュメール人という説もある。古羌族は紀元前5000年から紀元前4000年以前から居たと言われています。古羌族の遺跡と思われるものは、チベット高原東部に見られるカロ遺跡と現在の青海省から甘粛省にかけての地域に見られる馬家窯文化の遺跡がある。羌族チベット系民族で西アジア遊牧民族であったと言われており、やがて、中国西部に勢力を伸ばし、後に漢民族として漢水の上流にいる羌族を「南羌族」、現在の青海省にいる羌族を「西羌族(胡人)」と呼ぶようになる。他にも羌族は「タンクート」、「蔵人」、「番子」と呼ばれる。羌族は現在の山西省陝西省甘粛省および青海省辺りに分布していたが、中国の殷の時代に山西省を放棄し西へと移住した(殷王朝は狩りと称して羌族を捕え、奴隷とし呪術の生贄にしていた)。紀元前1046年に中国の周と協力し、殷王朝を滅ぼし、紀元前770年から紀元前476年頃の中国春秋時代には「斉」を名乗る。紀元前220年頃の中国漢時代には「西羌」と呼ばれ、中国魏晋南北朝時代陝西省に入り自ら国を建てた(斉万年の軍)。紀元前206年頃からは前漢に吸収され、紀元後291年から紀元後306年にかけての晋の内乱(八王の乱)時には傭兵として雇われ中国に移住し、羌(後の後秦)、氐(テイ、後の前秦)、匈奴(キョウド、後の前趙、夏国)、鮮卑(センピ)、羯(ケツ、後の後趙)の五民族が参戦しこれらは五胡と呼ばれる(五胡十六国時代)。その中で羌族と氐族がチベット遊牧民族だった。羌族は「後漢」を名乗るも、紀元後417年に東晋に滅ぼされ、中国の唐代、北宋代にはタングートが強勢になり「タングート王国(党項王国)」を建てるが吐蕃王国に圧迫される。紀元後1038年には現在の甘粛省で「西夏」を建て、その後、金に服属するが、紀元後1227年に元のチンギス・ハンに滅ぼされる。現在では、少数だが四川省に集落が見られる。宗教は多神教で複雑であり、古代ボン教にみられるアニミズムである。ただし北部の羌族では、チベット仏教の影響でラマ教を信仰している。

b.氐族(テイ)
紀元前2世紀頃から現在の青海省周辺で遊牧生活をしており、紀元後4世紀から紀元後5世紀頃には成漢、前秦後涼などの国を建てた。一部の氐族は現在のミャンマーに南下し、パガン王朝を建国したと言われている。

c.吐谷渾(トヨクコン)
 紀元後4世紀頃に青海省一帯を支配していたが、紀元後663年に吐蕃王国の攻撃を受け、紀元後8世紀頃には滅亡してしまった。

2.チベット高原西部
シャンシュン王国(象雄王国)
 紀元前1000年頃にカイラス山麗一帯に栄えた女王国で、キュンルン・ングルカル(ガルーダ谷の銀城)を首都とし、シャンシュン語を使用していた。シャンシュン語については未だ不明な部分が多く、現在研究がされているようである。東はナムツォ(ラサの北部)、西はプルシャ(現在のギルギット)、南はムスタン(現在のネパールとの国境、ダウラギリ県ムスタン郡ガンダキ川上流付近)、北はリユル(現在のホータン)を統治していた(アフガニスタン東部のバダクシャン、ウズペキスタンのポハラも含むという説もある)。宗教はボン教を崇拝し、当時のマントラや経典はシャンシュン語で書かれている。紀元後643年に吐蕃王国によって滅ぼされる。

3.チベット高原全体
 チベット高原には、おおよそ30000年から21000年前頃には人類が定住していたと言われており、中国側の主張では中国方面から移住してきたと言われています。ラサ周辺にておおよそ26000年から21700年前と推測される遺跡が見つかっています。国が形成されるまではいくつかの集落が点在し、古代ボン教を信仰していたと言われています。

a.吐蕃王国
 紀元後620年頃にソンツェン・ガンポ王により建国され、紀元後643年にシャンシュン王国を滅ぼしチベト高原全土を統一した。首都をラサとし、紀元後8世紀頃にティソン・デツェン王により仏教(インド仏教、古密教)の国教化がはじまったが、紀元後838年にラン・ダルマ王により廃仏政策がはじまる。紀元後841年にラン・ダルマ王が暗殺され、翌年の紀元後842年に吐蕃王国が南北に分裂(グゲ王国、青唐王国)し、徐々に衰退して滅亡する。

b.グゲ王国(古格王国):北朝
 紀元後842年に吐蕃王国の王族の一部がチベット西部で建国。首都はツァンパランという要塞都市で仏教再興に貢献した。紀元後1227年にラダック王に征服され滅亡した。

c.青唐王国:南朝
 紀元後1032年に吐蕃王国の王の末裔が現在の青海省で建国したが、紀元後1227年にタングートの西夏に併合され、後に滅亡した。

d.その他
 吐蕃王国滅亡後(紀元後842年〜)はグゲ、青唐以外にも多くの諸侯が分立した。紀元後1073年にはチベット仏教サキャ派チベットを支配し、紀元後13世紀頃にはモンゴルの元によりチベット高原が支配される。元の衰退後、チベット中央部は烏欺蔵(烏思蔵、ウシゾウ、ウスツアン)と中国文献には記され、他にも小勢力が分立した。紀元後1358年にはチベット仏教のパクモドゥ・カギュ派が、紀元後1481年にはリンプン一族が、紀元後1565年にはツァンパ地方の王がチベットを支配した。紀元後1636年にチベット仏教ゲルク派が政治的に危機に陥っているのを救う名目で、オイラト軍を率いて翌年の紀元後1637年にチベット東北部のアムド地方を制圧、紀元後1642年には熱心なダライ・ラマ信者であったグシ・ハン王朝がチベットに樹立され、ダライ・ラマ政権がはじまりガンデンポタンチベット政府)が発足する。しかし、紀元後1717年ジュンガルの侵攻によりグシ・ハンの直系が絶え、紀元後1723年から紀元後1724年に中国の清朝により征服される。

e.ダライ・ラマ政権
 紀元後18世紀後半にダライ・ラマ政権が復活し、紀元後1911年から紀元後1912年の辛亥(シンガイ)革命により清朝が滅亡、チベット人はラサを占拠していた残りの清朝軍を駆逐した。そして紀元後1940年にダライ・ラマ14世が即位した。しかし紀元後1950年に中国(中華人民共和国)の人民解放軍チベットに侵攻をはじめ、紀元後1951年に十七ヵ条の協定締結により、チベット全土が中国の実行統治下になってしまう。紀元後1956年から紀元後1961年にかけ中国人とチベット人によるチベット動乱が起き、ダライ・ラマ14世および各派の僧、信者たちの一部は紀元後1959年にインドへ亡命し、亡命政府を樹立する。

f.中国統治下のチベット
 紀元後1965年に中国西蔵自治区チベット自治区)が成立し、紀元後1966年から紀元後1976年にかけて中国文化大革命が起きる。この時、チベットにおいては多くの寺院、聖堂、仏像、聖典、経典、宗教文献、儀式用の法具類、宮殿、財宝、仏壇および民族家具などが破壊され、宗教上の祭礼、習慣、伝統的な歌を歌うこと、民族衣装を着る(飾りつけをする)、伝統的な髪形にすることや伝統的な模様を描くことを禁止した。現在はチベットの寺院の一部が再建されつつあり、ダライ・ラマ14世はインドのダラムサラにて非暴力主義と世界平和の実現を強調し、チベットからの難民を受け入れるなどの活動をしている。

ボン教

度々、文章の中に出てくるボン教について簡単にですが説明します。ボン教チベット仏教が栄える以前、おおよそ紀元前15000年の古代よりチベット高原一帯に土着している祖霊信仰、アニミズム(山や川など自然界に存在するものには神が宿っていると信じ、それらを祀る)で、主に悪魔払いなどを中心としていた宗教と言われている。ボン教は大きく分けて古代ボン教(魔ボン、ツェン・ボン)と現在のボン教(ユンドゥン・ボン)に分けられ、現在のボン教(ユンドゥン・ボン)は更にドル・ボン、キャル・ボンおよびギェル・ボンの3期に分けられる。
また、ボン教では数字や図形を重要視しており、7と9はチベット人のシャーマンが多用する数字であった。最も吉祥な数字は9とされており、ボン教の神話では地界は内から9層になっており(九重地)、天界ははじめ9層あり(九重天)やがて13層に拡大するといわれている。ちなみに13は聖なる数字とされ、図形では卍は不滅を意味する重要なシンボル、△は完全な鎮圧を意味するといわれている。
ボン教と天珠の関係はまだわかってはいないが、天珠が宗教的に用いられたものだった場合、とても重要な手掛かりとなる。

1.古代ボン教(魔ボン、ツェン・ボン)
紀元前15000年頃からチベット高原一帯、および周辺にあった土着のアニミズム。殺生を伴う祭祀儀礼、つまり生贄を必要とする儀礼をおこなっていた。現在もチベット各地に残っているが、シェンラブ・ミボの教えにより生贄は動物模型などに代替されている。

2.ボン教(ユンドゥン・ボン)
 現在残存しているボン教で、シェンラブ・ミボが創立したもの。古代ボン教ゾロアスター教の影響を取り入れている(紀元前5世紀末頃に古代インドのバラモン神学を元に作られたともいわれている)。現在はチベット仏教ニンマ派に吸収され、受け継がれ続けている。

a.ドル・ボン期
 シェンラブ・ミボの教義で、経典のない時代。「神を敬うこと」「他者を祝福すること」「魔を鎮めること」が教えである。

b.キャル・ボン期
 吐蕃王国第八代王ティグン・ツェンポが殺され、その子孫は仇を討つためボン教徒を招く、西方から来たボン教徒は後に釈迦時代の「六師外道」を教義に取り入れる。

c.ギェル・ボン期
 紀元後8世紀後半、吐蕃王国ティソン・デツェン王により仏教の国教化がはじまり、これを不快に思ったボン教学者のジュイ・チャンチュが仏教経典を改変してボン教のものにしてしまう。ティソン・デツェン王はジュイ・チャンチュを殺害し、ボン教徒を強制的に仏教へ改宗させる。しかし、ボン教徒はチベット西部でボン教の教義を完成させていった。後にボン教の教義はチベット仏教ニンマ派に吸収され命運を保つことになる。

 ボン教の教義には二つの分類法があり、「四つの門と一つの宝典」と「ボン教の九乗」(ボン教の九つの道)という分類があり、「ボン教の九乗」は「原因の道(1〜4)」「結果の道(5〜8)」「乗り越えられぬ道(9)」(偉大なる完成の道)の三つに統合される。以下では「ボン教の九乗」の内容を紹介したい。

1.「予言の道」… 呪術や占星術などの儀式を扱う
2.「視覚世界の道」… 精神物理学の世界を扱う
3.「幻想の道」… 息災法における儀式の詳細を扱う
※息災法とは外的な災難、障害、煩悩および罪障などを除去すること。災害のないことを祈るもので、干ばつ、強風、洪水、地震、火事をはじめ個人的な苦難、煩悩も対象となる。
4.「存在の道」… 葬儀を執り行う
5.「平信徒の道」… 健全な生活を送るための十の原理を含む
6.「僧侶の道」… 修行者の戒律を説く
7.「原初の音の道」… 最高の天啓であるマンダラへの統合を説く
8.「原初のシェンの道」… 真のタントラの師を求めるための指導基準と、弟子を師に結び
つけておく精神的な責任を説く
9.「至高の教え」… 偉大なる完成の教えのみを論ずる

 これらは、「経典」「智恵の教えの完成」「タントラ」「知識」という4種類、200冊以上のボン教聖典で説かれており、他にも儀式、工芸美術、論理学、医学および物語を扱う経典があり、チベット仏教ニンマ派と密接なつながりがあるが、「知識」部門の宇宙論や宇宙進化論は独自のものである。
 「ボン教の九乗」の「九乗」とは9つの教えで、1から段階的に9まで教わっていくもの、つまり数字が小さいほど基本的な教えで、大きくなるほど内容が深い教えになると筆者は推測している。