天珠の起源について

天珠を扱っているショップであれば、まず間違いなく説明されるのは「2000年から2500年以上前からチベットに伝わるパワーストーン(霊石もしくはお守り」となっていると思います。天珠の意味に関しても、ほぼ間違いなく仏教に精通した内容です。しかし、ここでみなさんに疑問を持ってもらいたい。前述したとおりチベットに仏教が伝来したのは紀元後8世紀頃である。それに対し天珠は2000年から2500年以上前、つまり紀元前からあるものとされており、年代に矛盾が生じているのです。つまり仏教伝来以前にはすでに天珠が存在し、今ある意味とは別の意味や用途があったものなのである。では、仏教伝来以前の天珠にはどういった意味合いがあったのでしょうか。今まで長々と天珠から離れたテーマで書き続けていましたが、ここからが今回の最大の課題なのです。

確定をすることはできませんが、天珠は紀元前500年前後のシャンシュン王国で作られたとされるという説と、紀元前2000年頃には既に存在し、現在のイラン周辺と思われるタジク王国、もしくはペルシア方面から持ち込まれたという説があります。タジク王国という国は現時点では存在が明らかではなく、伝説としては「チベット西にあり、世界の2/3を占める神秘の国」といわれており、幻の国シャンバラと同一視されることもあります。ちなみに現在のタジキスタンとは関係ないといわれています。また、紀元前2000年頃に滅亡したシュメール人インダス川経由でチベットに入り東部へ移動した際にもたらされた可能性も考えられます。ただひとつ言えることは、天珠はチベット圏で作られたものではあるが、源流となったものは他国にあり、仏教に関わるものではなく、今ある天珠の意味合いは後付けされたものだということである。
 では、もう少し内容を細分化して推測してみようと思う。

a.シャンシュン王国起源
 シャンシュン王国は前述したとおり、紀元前1000年頃に建国された王国であり、ボン教を信仰していました。ここで考えられるのは、天珠は「ボン教に関係しているもの」もしくは「王国の階級などの印として使われていた」のふたつの説が推測でき、どちらも何かの目印的な意味合いで作られたと思われます。

b.タジク王国、ペルシア方面から持ち込まれた
 紀元前2000年頃のイラン方面は、メソポタミア文明アッカド王朝から古代バビロニア王国に切り替わる頃である。戦場から逃れてきた者、あるいは領土拡大をしようとしたバビロニア兵士がチベット方面まで訪れた可能性がある。その際に天珠の元となったものあるいは技法が持ち込まれた可能性は十分にあり得るのです。また、逆の発想でチベット人アッカド王朝、もしくは古代バビロニア王国を訪れた際に手に入れてチベットに持ち込んだ可能性も推測でき、この場合は交易品か献上品としてもたらされたと思われる。

c.シュメール人が持ち込んだ
 シュメール文明は紀元前2000年頃、古代バビロニア王国に支配され、その際、シュメール人は東方のインダス川を経由しチベットに入り、そして黄河上流を目指したといわれ、羌族の祖先ではないかともいわれています。シュメール人固有のものだったか(ただし、シュメール文明の遺跡から天珠が発掘されたという事例は報告されていない)、インダス川を経由した際にインダス文明から持ち込んだ可能性、インダス文明のエッチドカーネリアンが天珠の基礎となった可能性も推測できます。

簡単にまとめると、古代チベット人(古羌族)の長または呪術師のような権力のある者が権力の象徴として天然縞メノウのビーズ(スレマニではない)を持っており、その後、建国したシャンシュン王国(紀元前1000年〜)でも権力の象徴として天然縞メノウビーズが用いられていたが、その後、交易などでエッチドカーネリアンやスレマニがインダス文明よりチベットに持ち込まれるようになる。しかし、当時は恐らくそれほど交易が盛んではなかったため簡単に手に入れることの出来ないものであり、そこでその美しさを真似て、チベット産のメノウを使いエッチドカーネリアンの技法を用いて作られたのが天珠の起源ではないかと推測できる。
もしくはシャンシュン王国ができる以前(紀元前2000年頃)に、シュメール人によってエッチドカーネリアンとその技法が古代チベット人(古羌族)の集落に持ち込まれて天珠の前身が作られ、シャンシュン王国にも受け継がれたとも推測できる。