チベット高原の歴史

天珠のルーツを調べる上で、チベットおよびチベット周辺諸国の歴史背景を知ることはとても重要なことである。古代のチベット高原は大きく分けて東部と西部に分けられ、後に併合されていきます。

1.チベット高原東部
a.羌族(チャン)
 チベット高原東部の先住民と言われており、その祖先はシュメール人という説もある。古羌族は紀元前5000年から紀元前4000年以前から居たと言われています。古羌族の遺跡と思われるものは、チベット高原東部に見られるカロ遺跡と現在の青海省から甘粛省にかけての地域に見られる馬家窯文化の遺跡がある。羌族チベット系民族で西アジア遊牧民族であったと言われており、やがて、中国西部に勢力を伸ばし、後に漢民族として漢水の上流にいる羌族を「南羌族」、現在の青海省にいる羌族を「西羌族(胡人)」と呼ぶようになる。他にも羌族は「タンクート」、「蔵人」、「番子」と呼ばれる。羌族は現在の山西省陝西省甘粛省および青海省辺りに分布していたが、中国の殷の時代に山西省を放棄し西へと移住した(殷王朝は狩りと称して羌族を捕え、奴隷とし呪術の生贄にしていた)。紀元前1046年に中国の周と協力し、殷王朝を滅ぼし、紀元前770年から紀元前476年頃の中国春秋時代には「斉」を名乗る。紀元前220年頃の中国漢時代には「西羌」と呼ばれ、中国魏晋南北朝時代陝西省に入り自ら国を建てた(斉万年の軍)。紀元前206年頃からは前漢に吸収され、紀元後291年から紀元後306年にかけての晋の内乱(八王の乱)時には傭兵として雇われ中国に移住し、羌(後の後秦)、氐(テイ、後の前秦)、匈奴(キョウド、後の前趙、夏国)、鮮卑(センピ)、羯(ケツ、後の後趙)の五民族が参戦しこれらは五胡と呼ばれる(五胡十六国時代)。その中で羌族と氐族がチベット遊牧民族だった。羌族は「後漢」を名乗るも、紀元後417年に東晋に滅ぼされ、中国の唐代、北宋代にはタングートが強勢になり「タングート王国(党項王国)」を建てるが吐蕃王国に圧迫される。紀元後1038年には現在の甘粛省で「西夏」を建て、その後、金に服属するが、紀元後1227年に元のチンギス・ハンに滅ぼされる。現在では、少数だが四川省に集落が見られる。宗教は多神教で複雑であり、古代ボン教にみられるアニミズムである。ただし北部の羌族では、チベット仏教の影響でラマ教を信仰している。

b.氐族(テイ)
紀元前2世紀頃から現在の青海省周辺で遊牧生活をしており、紀元後4世紀から紀元後5世紀頃には成漢、前秦後涼などの国を建てた。一部の氐族は現在のミャンマーに南下し、パガン王朝を建国したと言われている。

c.吐谷渾(トヨクコン)
 紀元後4世紀頃に青海省一帯を支配していたが、紀元後663年に吐蕃王国の攻撃を受け、紀元後8世紀頃には滅亡してしまった。

2.チベット高原西部
シャンシュン王国(象雄王国)
 紀元前1000年頃にカイラス山麗一帯に栄えた女王国で、キュンルン・ングルカル(ガルーダ谷の銀城)を首都とし、シャンシュン語を使用していた。シャンシュン語については未だ不明な部分が多く、現在研究がされているようである。東はナムツォ(ラサの北部)、西はプルシャ(現在のギルギット)、南はムスタン(現在のネパールとの国境、ダウラギリ県ムスタン郡ガンダキ川上流付近)、北はリユル(現在のホータン)を統治していた(アフガニスタン東部のバダクシャン、ウズペキスタンのポハラも含むという説もある)。宗教はボン教を崇拝し、当時のマントラや経典はシャンシュン語で書かれている。紀元後643年に吐蕃王国によって滅ぼされる。

3.チベット高原全体
 チベット高原には、おおよそ30000年から21000年前頃には人類が定住していたと言われており、中国側の主張では中国方面から移住してきたと言われています。ラサ周辺にておおよそ26000年から21700年前と推測される遺跡が見つかっています。国が形成されるまではいくつかの集落が点在し、古代ボン教を信仰していたと言われています。

a.吐蕃王国
 紀元後620年頃にソンツェン・ガンポ王により建国され、紀元後643年にシャンシュン王国を滅ぼしチベト高原全土を統一した。首都をラサとし、紀元後8世紀頃にティソン・デツェン王により仏教(インド仏教、古密教)の国教化がはじまったが、紀元後838年にラン・ダルマ王により廃仏政策がはじまる。紀元後841年にラン・ダルマ王が暗殺され、翌年の紀元後842年に吐蕃王国が南北に分裂(グゲ王国、青唐王国)し、徐々に衰退して滅亡する。

b.グゲ王国(古格王国):北朝
 紀元後842年に吐蕃王国の王族の一部がチベット西部で建国。首都はツァンパランという要塞都市で仏教再興に貢献した。紀元後1227年にラダック王に征服され滅亡した。

c.青唐王国:南朝
 紀元後1032年に吐蕃王国の王の末裔が現在の青海省で建国したが、紀元後1227年にタングートの西夏に併合され、後に滅亡した。

d.その他
 吐蕃王国滅亡後(紀元後842年〜)はグゲ、青唐以外にも多くの諸侯が分立した。紀元後1073年にはチベット仏教サキャ派チベットを支配し、紀元後13世紀頃にはモンゴルの元によりチベット高原が支配される。元の衰退後、チベット中央部は烏欺蔵(烏思蔵、ウシゾウ、ウスツアン)と中国文献には記され、他にも小勢力が分立した。紀元後1358年にはチベット仏教のパクモドゥ・カギュ派が、紀元後1481年にはリンプン一族が、紀元後1565年にはツァンパ地方の王がチベットを支配した。紀元後1636年にチベット仏教ゲルク派が政治的に危機に陥っているのを救う名目で、オイラト軍を率いて翌年の紀元後1637年にチベット東北部のアムド地方を制圧、紀元後1642年には熱心なダライ・ラマ信者であったグシ・ハン王朝がチベットに樹立され、ダライ・ラマ政権がはじまりガンデンポタンチベット政府)が発足する。しかし、紀元後1717年ジュンガルの侵攻によりグシ・ハンの直系が絶え、紀元後1723年から紀元後1724年に中国の清朝により征服される。

e.ダライ・ラマ政権
 紀元後18世紀後半にダライ・ラマ政権が復活し、紀元後1911年から紀元後1912年の辛亥(シンガイ)革命により清朝が滅亡、チベット人はラサを占拠していた残りの清朝軍を駆逐した。そして紀元後1940年にダライ・ラマ14世が即位した。しかし紀元後1950年に中国(中華人民共和国)の人民解放軍チベットに侵攻をはじめ、紀元後1951年に十七ヵ条の協定締結により、チベット全土が中国の実行統治下になってしまう。紀元後1956年から紀元後1961年にかけ中国人とチベット人によるチベット動乱が起き、ダライ・ラマ14世および各派の僧、信者たちの一部は紀元後1959年にインドへ亡命し、亡命政府を樹立する。

f.中国統治下のチベット
 紀元後1965年に中国西蔵自治区チベット自治区)が成立し、紀元後1966年から紀元後1976年にかけて中国文化大革命が起きる。この時、チベットにおいては多くの寺院、聖堂、仏像、聖典、経典、宗教文献、儀式用の法具類、宮殿、財宝、仏壇および民族家具などが破壊され、宗教上の祭礼、習慣、伝統的な歌を歌うこと、民族衣装を着る(飾りつけをする)、伝統的な髪形にすることや伝統的な模様を描くことを禁止した。現在はチベットの寺院の一部が再建されつつあり、ダライ・ラマ14世はインドのダラムサラにて非暴力主義と世界平和の実現を強調し、チベットからの難民を受け入れるなどの活動をしている。